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| 「部分と全体」の楽観主義、「拡大解釈」のアファメ... | ヒロさん日記 @イギリス | |
『Learned Optimism』によると、人生トントン拍子でうまくいく人の思考パターンは以下の通りだという。 どんな失敗も“部分”であり、うまくいったことはすべて“全体”。 失敗、つまづき、トラブル、不和、災難などはどんな人にも起こるが、それが起こったときは「たまたま起こった」と考える。一方、少しでもラッキーなこと、うれしいこと、うまくいったことは「私はいつも絶好調、超ラッキー」と考える。 つまらないものや嫌な体験を味わっても、「本なんて所詮・・・」「派遣会社なんて結局・・・」「男なんてみんな・・・」「フランス人は必ず・・・」のように一般化するのはやめる。その本や、その派遣会社や、その男や、そのフランス人がたまたま自分の波長に会わなかっただけだ。 そして、いいものに出会ったときは「私はツイている、みんな助けてくれる、結局は私はハッピーエンド」にしてしまう。さらに、友人や他人にいいことが起こった場合は、自分にもひょっとして起こるかもと“拡大解釈”する。 世の中だ不況だ、鳥インフルエンザだ、食糧難だ、戦争だと騒ぎ始めても、それは「全体」ではなく「一部」の話にすぎない。一方、人様の話で借金地獄から大逆転、視力が0.01から0.6へ回復、高齢になってからベストセラーと書いたといった成功談があれば、「同じ人間がやったこと、私にもできるかも」と考える。 エスター・ヒックスの『The Law of Attraction』(邦題:引き寄せの法則)にあるアファメーションもよくできている。宇宙意識アブラハムがあなたのために以下のような言葉を選んでいる。 ◆Esther and Jerry Hicks 『The Law of Attraction』 p70 I want perfect health! I like feeling good. I enjoy my good-feeling body. I have many positive memories of feeling good in my body. I see many people who are clearly in a state of good health, and it is easy to see how much they are enjoying their good-feeling bodies. When I think thoughts like this, I feel good. These thoughts are in harmony with a healthy body. 【拙訳】完全な健康がほしいなぁ! 私は気持ちのよいのが大好き。 私の体はとっても気持ちがいいので、ほんと〜うにうれしいわ。 私の体には、気持ちのいい思いをしたときのいい思い出がたくさん詰まってる。 世の中にはすてきな健康を楽しんでいる人たちが、ほんとうにた〜くさんいる。 その人たちを見ていると、気持ちのいい体をほんとうに楽しんでいるんだなぁ、ってわかる。 と、こんなことを考えているだけで、気分がよくなっちゃった。 こういう考えが実際の健康を引き寄せちゃうのよね。 このアファメーションを「部分と全体」のオプティミズムで読み取ってみる。 こういうアファメーションは「病気を何とかしたい」「もっと健康になりたい」からやるわけだが、今の病状にはいっさい触れずに、私の体の“全体”が「いい気持ちの体なのよ!」と宣言する。今はどうであれ、過去に一瞬でも「いい気持ち」があれば、そんないい気持ちが“た〜くさんあった”ことにする。今この瞬間、実際に気持ちのいい気分のときは、これに付け込んで「私はいつも気持ちがいい、私の体は気持ちがよくなるためにあるの」という“普遍的な状態”に誘導する。 自分の過去に「気持ちのいい」健康ファイルが乏しいときは、他人の「気持ちよさ」を自分の意識に転用し、流用し、拡大させる。一方で他人の老化、病気、事故、怪我の話は素通りのスルーにしてしまう。友人が風邪を引き始めても、自分の喉がちょっと痛み始めても、いちいち話題にしない。明日の朝はニコニコ健康で目覚めることだけを考える。 『Power of Now』(邦題:悟りを開くと人生はシンプルで楽になる)が指摘するように、大多数の人たちの体に対する意識は「Pain Body(痛みの体)」にある。体は痛み、苦しむためにある。痛みと苦しみは恨みとなって体に染み付き、霊的覚醒や心の成長のためには、体の“受難”の日々は避けられないと信じ込む。そんな「体の痛み」や「心の痛み」は、全部まとめてゴミ箱に捨ててしまえということだ。 もう1度まとめると、 不愉快なものは限定解釈、気持ちいいものは拡大解釈。 このような「思考の習慣」は単純だが、単純であるがゆえに、よほどラッキーな星の下に生まれた人以外は、学習しないと身につかない。が、学習すれば確実に身につく。お稽古事を1つマスターするぐらいの意気込みは必要かな。 ■つぶやき: 書棚にあった三浦綾子の本とおさらばすることにした。『塩狩峠』『氷点』『道ありき』など悲しくも気高い名作で、著者の誠実さと不屈の精神が“買い”でもあるが、「痛みの体、犠牲→信仰(キリスト教)」という文脈はもはや私の人生に必要としない。ドストエフスキーも然り。さようなら。 |
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| 十二宮星座をもとに記憶・伝承されたマルコ福音書(... | ヒロさん日記 @イギリス | |
新約聖書の4つの福音書で最も古いのはマルコだ。その他3つの福音書と比べて、幾分稚拙なギリシャ語で書かれている。聖者かつ革命児のイエスついて語れられた伝承は山ほどあったはずだが、ギリシャ圏で生活するユダヤ人の語り部がこれを伝えようとするとき、膨大なストーリーを整理して暗記する“記憶術”のベースが必要だった。そのベースの役割を果たしたのが、十二宮星座とその周辺星座群だ。 イエス伝承がギリシャ圏に広がった1世紀後半までに、以下のような状況がある。 BC8世紀ごろから神話とトロヤ戦争の逸話が渾然一体となったホメロスの叙事詩が書かれる。 BC6世紀のバビロン捕囚で発生した亡命ユダヤ人のネットワークが、その後の救世主ペルシャ王によるユダヤ人の解放とあいまって、カルデアとペルシャの占星術・星座学をギリシャ圏に導入した。 BC3世紀からモーゼ五書を皮切りに旧約聖書のギリシャ語翻訳が徐々に進展した。 BC1世紀のキケロなどが弁論術としての記憶術を著作にまとめ、1世紀のクインティリアヌスは『Institutio Oratoria』(雄弁家教育論)で「記憶術のベースとして十二宮も使用されていた」ことに言及している。 膨大なストーリーを記憶するときの記憶術の基本は「場所とイメージ」だ。記憶術で使用する「場所」は記憶する個々人に委ねられるパーソナルな空間だが、社会全体がまちがいなく共有していた空間があった。現代日本では「夜7時のNHKニュース」などがささやかな共有空間になっているかもしれないが、古代社会にはテレビも電気も新聞も本もない。視力2.0〜3.0という視力抜群の古代人たちが夜に共有していたのは、パノラマ式に広がる星空のハイビジョン映像だ。 特にギリシャ圏では、頻繁に網膜に焼き付けられる星空という「場所」に、さまざまな神話が「イメージ」として配置された。中世のキリスト教圏には旧約・新約の聖書全編を暗記するつわものが登場するくらいなので、古代ギリシャのプロの語り部は、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』をはじめ、数百・数千ページ分に相当する膨大なギリシャ神話、カルデア神話、バビロニア神話、ペルシャ神話を語り続けたことであろう。 ヘブライ語(またはアラム語)とギリシャ語の両方をしゃべるバイリンガルのユダヤ系聖職者や知識人の場合は、BC3世紀から翻訳され始めたギリシャ語版の聖書物語(=旧約聖書)を吸収し、これを滔滔と語っていたはずだ。そして1世紀の後半になると、ザワザワと騒がしいもう1つの物語が広がり始めた。革命児イエスの物語だ。 福音記者マルコはこの革命児の物語をどのように整理したのか。以下、牡羊座から魚座にいたるまでの1年間のイエス物語を『The Gospel and the Zodiac』(Bill Darlison, 2007)から要約してみたい。 ■■■■■■十■■■■■■ 現代の占星術は春分を起点として牡羊座から始まっているが、これは3000〜4000年前の占星術の伝統を踏襲したものだ。現在の春分点は魚座から水瓶座に近づいており、2000年前のイエスの時代には「牡羊座→魚座」という移行時期にあたっていた。マルコ福音書では、この新しい時代としての魚座を「人間を釣る漁師」などで強調しながら始まり、魚座と隣接のアンドロメダ座の象徴を使いながら「十字架と復活」で終結する仕掛けとなっている。 ■牡羊座(3月)春分・・・・決断、革新 <火星・Fire> マルコ1:1→3:35 「バビロニアの星座の名前」を調べるとわかるように、牡羊座はシュメール語の星座名では「Lu Hunga=雇われ人」を意味する。イエスが4人の漁師を筆頭に12人をリクルートしていく物語だ。リクルートの最中にいきなり「汚れた霊(悪魔)」との対決が起こるが、これは隣接の星座ペルセルスが怪物ケト(鯨座)と闘う様子を対比したもの。 多くの病人を癒すときに「シモン(=ペテロ)のしゅうとめが熱を出して寝ていた」(1:30)が、このしゅうとめは隣接するカシオペアのこと。妻カシオペアと夫ケフェウス(Cepheus)の間にアンドロメダという娘があり、この娘は怪物への生け贄として岩につながれていた。「岩につながれている」ことから「ペテロ(“石”の意)と結婚している」が出てきたもの。またペテロはアラム語ではCephasとなり、しゅうとのケフェウスも暗示する。 断食問答で「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」(2:19)というたとえが出てくるが、この花婿とは、後にアンドロメダを救済して結婚する英雄ペルセウスのこと。花婿すなわち英雄の婚礼式で断食するなんて、何を考えているのか、古い考えは捨てよ、というたとえ話になる。 ■牡牛座(4月)・・・・農耕、光、忍耐 <金星・Earth> マルコ4:1→4:34 牡牛座は農耕と忍耐の象徴だ。ここでは「種を蒔く人」、「種を蒔く人の説明」、「成長する種」、「からし種」と農業関連の話が連発される。中間部に「ともし火」のたとえが挿入されているのは、牡牛座のアルデバランが「ともし火」と呼ばれ、隣接のオリオン座が「天の光」とされていたことによる。 ■双子座(5月)・・・・二元性、二重性 <水星・Air> マルコ4:35→6:29 双子座のカストルとポルックスは舟の上に乗る双子の構図だ。舟上のイエスと弟子たちを嵐が襲った話(マルコ4:35)は、ギリシャ神話のアクタイオン(Actaeon)の飼い犬ライラプス(Laelaps)が「嵐、旋風」を意味していることから、隣接のおおいぬ座をベースにする可能性が濃厚。また、ホメロスの『オデュッセイア』にある英雄ヘクトルと風神アイオロスのシーンに類似する。 ゲサラではレギオン(大勢)と名乗る霊群が登場する(マルコ5:9)が、レギオンは通常6千人を単位とするローマの歩兵隊であるにもかかわらず、なぜか「2千匹ほどの豚」に取り憑いて湖になだれ込む。湖の向こう岸に渡って癒したのは「12才の少女」(5:42)と「12年間出血に悩む女」(5:25)が2人の女がセットだ。村では弟子たちを「2人ずつ組」(6:7)にして遣わし、「下着は2枚着てはならない」という。(6:9) 霊に取り憑かれた人は二重人格であり、洗礼者ヨハネの処遇で揺れ動くヘロデ王(6:20)は二分された心だ。また双子座は「兄弟、姉妹、家族」の象徴でもあるため、イエスは「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」であり、「姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(6:3)という、故郷ナザレで敬われないイエスの話が挿入される。 ■蟹座(6月)夏至・・・・母性、授乳、食事 <月・Water> マルコ6:30→8:26 蟹座セクション直前でヨハネが殺されているのは意味がある。イエスは冬至生まれ、聖ヨハネは夏至生まれとして両極に位置しているが、夏至を境にしてヨハネの力は弱まり、イエスの力が強まることを示唆している。 蟹座の中心にある星団M44(プレセペ、Praesepe)は「蜂の巣」とも「飼い葉桶」とも呼ばれる。また蟹座のシンボルマークは女性の乳房をなぞらえており、授乳や食べ物を意味する。そのため、このセクションには食べ物の話が次々と出てくる。5千人に食べ物を与え(6:44)、汚れた手の食事(7:5)に関する質問に答え、「子供たちに十分食べさせなければならない」(7:27)と言い、再び4千人食べ物を与え(8:9)、ファリサイ派とヘロデのパン種(8:15)の話をする。 また、湖の上を歩く奇跡(6:49)があるのは、蟹座の関連星座としてアルゴス船(竜骨座Carina、船尾座Puppis、帆座Velaの合体形)が「水を克服したアルゴス」と呼ばれていたためだ。聴覚や視覚が不自由な人の癒し(7:35、8:24)は霊的な覚醒を意味するが、星座との関係は不明確。 ■獅子座(7月)・・・・火、子孫、父子関係 <太陽・Fire> マルコ8:27→9:32 獅子座は伝統的に「子孫」を意味し、このセクションでは世代の縦の流れとしての「父子関係」が強調される。日本語の聖書で「子」と表現されている部分は「息子」のこと。「人の子(son of man)」という表現が続き、イエスの姿が白く変わり(9:3)、神の子となる。霊に取り憑かれた子供も「息子」(9:16)だ。 汚れた霊が再び登場するのは、英雄ヘラクレスの敵である獅子と海蛇を悪魔にたとえたものか。「人の子」が「神の子」に昇華するのは、獅子座の第1星レグルスが「王」(百獣の王)を意味し、第2星Algiebaが「高揚」、尻尾近くのZosmaが「顕現」を意味するため。獅子座は占星術成立時には夏至の星座なので、イエスの姿が白く輝くのも真夏の象徴だ。 ■乙女座(8月)・・・・赤子、誕生、純粋 <水星・Earth> マルコ9:33→9:50 乙女座は「純真な子供」がテーマ。誰が一番偉いかという弟子たちの議論に対して、一人の子供を抱き上げる(9:37)のは乙女座の母子像の構図だ。逆らわないものは味方(9:40)、自分自身の内に塩を持つべき(9:50)という話も、子供のような魂の純粋さに通じる。 ここでは星座の関連が乏しいが、対応するマタイ福音書のセクション(マタイ18:11−14)では「迷い出た羊」の話が追加されており、これは乙女座に近隣する牛飼い座(羊飼い)を使ったものか。ちなみに、乙女座はヘブライ語で収穫を意味する「Bethulah」となり、イエスの生誕地ベツレヘム(Bethlehem)はパンの家(Beth=家、lechem=パン)を意味し、乙女座での誕生を暗示する。 ■天秤座(9月)秋分・・・・バランス、くびき、正義 <金星・Air> マルコ10:1→10:34 天秤座は一対の牛馬をつなぐ「くびき」であるため、このセクションは離縁するなかれという夫婦の教え(10:1)で始まる。「天に富を積む」(10:21)も俗と聖のバランスや天の銀行の勘定(balance)の問題でもある。 死と復活の予告(10:32−33)があるのは、天秤座に隣接するケンタウロス座の足元に十字星(南十字星)があることが関係しているもよう。天文学者プトレマイオス(BC2世紀)は水平線ギリギリのこの星座にいっさい言及していないが、エルサレムやアレキサンドリアより若干緯度が低い古代ペルシャの南部では「十字」として認識されていたという。 私見ではあるが、「離婚するな」と「天の勘定」に挟まれている「子供の祝福」(10:13−16)の逸話は、1つ前の乙女座にジャンプさせ「純真な子供」として解釈できれば、区切りがさらにスッキリする。 ■さそり座(10月)・・・・嫉妬、権力欲 <火星・Water> マルコ10:35→10:52 さそり座は火星とあいまって嫉妬や権力の象徴であるため、ヤコブとヨハネの権力欲とそれに嫉妬する十人の弟子の逸話(10:35−45)がある。続く盲人バルティマイの逸話(10:46−52)も、バルティマイ(Bartimaeus)がアラム語で「汚辱の息子」を意味する一方、ギリシャ語では「汚辱」の部分が「名誉」となる独特の掛け言葉だ。屈辱が栄光に逆転するストーリーになっている。 ちなみにユダヤ圏ではさそり座を隣接の鷲座で代用している。中世キリスト教の彫刻・図象では大天使ケルビムに遡る「人間、牛、獅子、鷲」の4獣神(テトラモルフ)が多用されるが、占星術成立当時の主要4星座が、人間(水瓶座)=冬至、牛(牡牛座)=春分、獅子(獅子座)=夏至、鷲(さそり座)=秋分であったことによる。 ■射手座(11月)・・・・英雄、挑戦、冒険 <木星・Fire> マルコ11:1→11:33 射手座は上半身は人間が弓矢を持ち、下半身は馬の形をした半人半獣だ。そのため、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入る場面(11:1−9)は「人間+馬」だ。同じ場面を記述するマタイ福音書などでは「ろば(onos)」を使っているが、マルコでは「子馬(polos)」を使っているため、翻訳は「子ろば」ではなく「子馬」が正しい。 神殿から商人を追い出す話(11:15)が出てくるのは、射手座に祭壇座(Ara)が隣接しているため。また「Ara」はギリシャ語で「呪い」や「呪いの結果」も意味しているため、いちじくの木の呪い(21:18−19、11:20−25)のエピソードとなる。このいちじくの木の話が2度に渡って登場することで、人間と馬が合体する“二重性”を暗示している。 ■山羊座(12月)冬至・・・・社会、共同体 <土星・Earth> マルコ12:1→12:44 山羊座では社会生活における権利・所有権・貨幣の話になっている。相続財産(12:1〜)、皇帝への税金(12:13〜)、女性の帰属(12:18〜)、隣人愛(12:28〜)、やもめの献金(12:41〜)など。 皇帝税金の問答でイエスがディナリオン銀貨を手に取る場面(12:15−16)があるが、これはアウグストゥス帝(帝位BC27-AD14)の銀貨で、肖像の裏側に「山羊のマーク」が鋳造されていたことによる。アウグストゥス帝は月の位置が山羊座と重なっているときに生まれた。また、マルコ福音書と同時期とみられるティトゥス帝(帝位AD79-81)は山羊座生まれだが、そのディナリオン銀貨の肖像の裏側には「山羊のマーク」が鋳造されていた。(銀貨のページはこちら) ■水瓶座(1月)・・・・個人、平等 <土星・Wind> マルコ13:1→14:16 水瓶座のこのセクションでは、社会の激変の中で個人が覚醒し、生き残ることを説く。ローマとのユダヤ戦争(AD64-70)でエルサレム神殿は完全に破壊されたことを背景に、終末論、黙示録の色合いを濃くする。「戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない」(13:7)と記しているため、マルコ福音書はこの戦争の最中または直後に書かれたという説が有力だ。 水瓶座が一発でわかるのは、イエスが過ぎ越しの(密会の)食事会場を指示する場面で、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい」(14:13)という記述だ。水瓶を運ぶのは女性の役割であり、密会場所を指示する“伝令”としては、あまりにも目立ちすぎる。 ■魚座(2月)・・・・情緒、自己犠牲、贖い <木星・Water> マルコ14:17→16:8 最後の晩餐、ユダの裏切り、十字架という魚座の自己犠牲でクライマックスを迎えるが、イエスは3日後に復活するので、終わりであると当時に始まりでもある。イエスの最後の言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は旧約聖書の詩編22−2からのコピーだが、わざわざアラム語で「エロイ、エロイ」(15:34)と書くのは、暗くなった天に対してギリシャ語で「ヘロイ(Heloi、太陽)」を暗示する掛け言葉だという。 牡羊座(3月)でも登場したように、隣接するアンドロメダ座は、何の罪もないにもかかわらず、海の怪物ケト(鯨座)の怒りを静めるために人身供犠として岩に鎖でつながれた哀れな乙女だったが、英雄ペルセウスがこれを救い、2人は晴れて結婚する。ここには「処女」「十字架」「犠牲」「救済」「復活」というメッセージがこめられる。娘を犠牲にした親(カシオペアとケフェウス)の罪は「人類の原罪」にもつながる。 本書には書いていないが、ローマ神話における魚座のイメージは、怪物テュフォーン(台風の語源)に追われた母ヴィーナスと息子キューピッドがエリダノス座(エジプト神話ではナイル川)を渡って、手をつないでいる姿であり、ギリシャ神話に対応させるとアプロデティとエロスになる。これは地母神と童子神の関係となり、十字架で死して聖母マリアと結ばれる構図と一致している。 ■■■■■■十■■■■■■ 以上、サイクル全体をマルコ福音書、星座表、ギリシャ神話と突き合わせながらまとめてみた。ギリシャ語、アラム語、ヘブライ語、シュメール語(バビロニア語)などの“掛け言葉”の部分は、さらに専門家の言い分を聞いてみたいところだが、周辺星座とギリシャ神話に強い人ならば、マルコ福音書が十二宮を使って伝承された、あるいは意図的に書かれたという説明は大いに納得できるはずだ。 星座やギリシャ神話に興味がない人でも、双子座セクションの数々の二重性、ヨハネの死と夏至、乙女座の母子像、馬に乗るイエスと射手座の対比、山羊座と皇帝の銀貨の意味、過ぎ越しの晩餐会場を指示する“水がめを持った男”などに驚かれるであろう。 2世紀前半の教父パピアスに「順序だっていない」と指摘されたマルコ福音書は、牡羊座から始まり、魚座で終結することを意図していたため、イエスの出生を語ることができなかった。しかしながら、クインティリアヌス(1世紀)が唱えていたような「十二宮を使った記憶術」の威力を十二分に発揮し、口承の物語として絶大なる人気を勝ち得ていたことは想像に難くない。 ■マルコを読んだことがない人のために・・・ 3分でわかるマルコ福音書 四福音書の成立背景の簡単な解説 マルコの組み立て構成がよくわかる“四福音書の記述対照表” |
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| 『Why Beauty Is Truth』:数学における対称性の歴史... | ヒロさん日記 @イギリス | |
「美」「真実」という言葉が出てくると芸術論を期待してしまうが、純粋に数学と物理学のお話だ。美術における対称性(シンメトリー)は主に鏡像の左右対称のことだが、数学の対称性は「ある変換を行ったときに、変換後も状態が変わらない場合」の変換性を指す。 正三角形は、120度、240度と回転させても状態は変わらない。おでんのように串刺しにしてクルリと180度回しても見かけは元のままだ。そのような操作と結果の集合が示すふるまいをあれやこれやと研究していたところ、群論(Group Theory)が生まれた。五次方程式の一般解が代数的に解けないことを証明したのも、ガロアやアーベルの群論だった。 五次方程式が解けようが解けまいが、二次が解けたから次は三次だ、そして四次だ・・・という数学者の頭の中のお遊びに過ぎなかったものが、過去200年弱の間に大いに発展し、相対性理論や量子力学を説明し、いまや重力と電磁力などを統合する「大統一理論」や「超ひも理論」の最先端を走る理論となっている。 ある演算を考えて、その結果を「百ます計算」のようにマトリックス表に書き出してみる。その結果が対角線をはさんで対称になったときに、オォーと何らかの美を感じるかどうか、あるいはよくある話じゃないのと素通りするのかどうか。 私の配偶者はほとんど何も勉強した形跡がないのに、ゼネコンの都市計画で活躍するようになった建築士だが、やはり数学のセンスが私とは違うものだなぁ〜と感心したことがある。 代数で「A×B=B×A」という交換法則がある。大人になってみれば常識の「3×5=5×3」だが、小学2年生のときに九九表を見て、これにピーンと反応したかどうか。私はまじめな性格なので、1の段、2の段、3の段とすべてをセッセと暗記したものだが、わが配偶者の場合は、 2×2、2×3、2×4、2×5、2×6、2×7、2×8、2×9 3×3、3×4、3×5、3×6、3×7、3×8、3×9 4×4、4×5、4×6、4×7、4×8、4×9 5×5、5×6、5×7、5×8、5×9 6×6、6×7、6×8、6×9 7×7、7×8、7×9 8×8、8×9 9×9 を暗記して終了である。「1」を含む掛け算は群論でいう「単位元の演算」なので、これもすべて省略する。そうすると本来の九九=81種類の演算は36種類に減少する。つまり小2にして群論の奥義と対称性の美に目覚めた人は、その後の数学人生の歩みが異なるのではないか・・・とぼんやりと考えている私である。(単なる賢いナマケモノに過ぎないという解釈もある。わが配偶者はイギリスに来るまでただの1度も英和辞典を引いたことがないという、トンデモのツワモノですので・・・) 数学的美学の探究は、物理的真実の探求に貢献するかどうか。この数百年の数学と物理学の発展関係を整理すると、「数学的な美」は「物理学の発見」に大いなる手がかりを提供している。物理的真理を究める上で、数学的な美は「十分条件」ではないが「必要条件」となっていることを否めない。 そしてこの「数学的な美」の中心にあるのが「対称性」だ。数学は非ユークリッド幾何学であれ、群論であれ、数学者がルールをつくって、その枠組みの中で遊ぶ世界だ。一方の物理学は、相対性理論であれ、量子力学であれ、自然(神)がつくったルールを探求し、その枠組みの中で遊ぶ世界だ。この2つの異なる世界が「対称性」を媒介にして限りなく接近する理由はどこにあるのだろうか。 『Why Beauty is Truth - History of Symmetry』の著者は、バビロニアの二次方程式、ギリシャの三大難問、三次・四次・五次方程式、ガウスの正十七角形作図、複素数平面、四元数、相対性理論、プランク定数、シュレディンガー方程式、結晶構造、次元の意味、ゲージ対称性、クオーク、超ひも理論、リー群、八元数などを説明した後に、数学と物理をとりもつ「対称性」について神秘的な問いを発しているが、その問いに答えていない。 宇宙の根源や究極の物理法則を探れば探るほどに、数学的な対称性に急接近するのは、おそらく宇宙の始まりが対称的な存在だったからだろう。写真(ネットより借用)は、12月にわが家の食卓を飾っていたものとそっくりなブロッコリーだ。これを例えに使うと、宇宙はもともと無数の対称性を持つ球体のような存在であったが、次第にキャベツのようになり、いくつかのパターンを繰り返しながら、次々と分化してブロッコリーのような多様性を演じているのではないか、ということだ。 「対称性の破れ」という言葉を使って説明する方法もある。 1) 人間は自然の一部であるがゆえに、ある対称性のパターンに美を見い出すように出来上がっている。 2) 自然や事象の多様性や複雑性とは、元々単一かつ不変であった対称性が次々に破れて展開した“なれの果て”だ。 3) 複雑性が展開する前の状態を突き詰めようとすると、必然的に“対称性”が絡むシンプルな法則に導かれていかざる得ない。 数学と物理の対称性は、「人の命の非対称性」や「ニュースの重みの非対称性」のように日常生活のレトリックとしても使われている。対称性の美と真理に目覚めた人は、社会学や日常生活のウソや飛躍を見破り、真理に迫っていく力を兼ね備えているという“拡大解釈”は、さて、果たして可能であろうか。 |
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| 短調の音楽は「暗い、悲しい」という三位一体の短絡... | ヒロさん日記 @イギリス | |
中学生のときのこと、「短調の音楽は暗い・悲しい」という友人に、「いや短調にも明るい曲はある」と反発したことがある。ステレオタイプ的なことを言う友人に対して、天邪鬼な私がしゃしゃり出たわけだが、ではどんな短調が暗くて、どんな短調が明るいか、その後しっかり考えたことがなかった。 で、4年前からピアノを始めた私だが、弾く曲が幼い子供の気質や心理にどんな影響を与えてしまうのか、いくぶん気を遣わざるを得なくなった。自分の心情にあう、大好きな曲を弾けばそれでいいのよ、と居直りたいところだが、わが子を通わせているシュタイナー小学校では、小1の音楽は長調のペンタトニック(5音階)から始まり、短調の曲は小3まで導入しないことになっている。 私のピアノのレパートリーは、竹内まりあの『駅』から始まった。短調だ。2曲目は簡易版の『スケーターズ・ワルツ』で長調だったが、3曲目はリヒナー『忘れな草』で短調。4曲目はマリー『金婚式』で短調、5曲目はシューベルト『楽興の時・第3番』も短調。6曲目のスコット・ジョプリン『Magnetic Rag』はかろうじて長調だったが、最も入れ込んだ7曲目のバッハのバイオリンソナタ・チェンバロソロ曲は短調で、その後、延々と短調が続く・・・という具合だ。 短調といっても、転調で長調に変わる曲は山ほどある。3曲目のリヒナー『忘れな草』は、私のこと忘れないで・・・と悲しい響きで始まり、そういえばあのときは楽しかったわと、しばし明るさを取り戻すものの、最後は私のことを忘れないで・・・とせつなく終わる。4曲目の『金婚式』も結婚50年目のわびしい曲で、中間部の転調では華やかな舞踏会を髣髴とさせるような長調があるが、最後はやっぱり50年目のじいさんとばあさんという感じで終わる。 最近わが家のBGMはバッハからモーツァルトに移行してきたが、モーツァルトのピアノ協奏曲(12枚組みCD)を全部聞いて見たら、32曲のうち30曲が長調でびっくりした。モーツァルトの器楽曲は80%強が長調だそうだが、一方、平均律の父バッハの場合は、器楽曲307曲のうち長調155曲・短調152曲とほぼ半々だ。モーツァルトで「頭がよくなる」かどうかは知らないが、私としては気分が軽快になる。 モーツァルトを掛けたからといって、電球が明るく灯るわけでも、壁の明度が上がるわけでもない。長調はどうして“明るく”、短調はなぜ“暗い”のか。曲全体の明暗や癒しの効果については論考が壮大になってしまうので、ここでは和声コードの長調・短調のもとになっている、長三和音(ド・ミ・ソ)と短三和音(ド・ミ♭・ソ)に限定して考えてみることにする。 ■■■■■■十■■■■■■ 音楽心理学によると、長調和音の「ド・ミ・ソ」は明るく響き、ドが主音(根音)になるという。音の周波数の比率は「ドソ」の完全五度のときは「2:3」、「ドミ」の長三度のときは「4:5」だ。この2つの比率を合体すると、 ド:ミ:ソ = 4:5:6 という美しい比率が出来上がる。この数学的なシンプルさが実際の響きにどう影響しているか。音を1オクターブ高くすると、周波数は2倍になるという「1:2」の関係を組み入れてみると、ドが主音であることがわかる。 任意のドの周波数を1としてみる。1オクターブ上の「高いド」の周波数は2となる。ドソの関係は2:3なので、続くソの周波数は3だ。「もう1つ高いド」の周波数は4で、そこからドミソの和音を鳴らすと、4:5:6の周波数で響く。 ド1、ド2、ソ3、ド4、ミ5、ソ6。 手許にキーボードがある人は、左手で「ド1、ド2」のオクターブ、右手でそれに続く「ソ3、ド4、ミ5、ソ6」の和音を同時に鳴らしてみてほしい。調和感・統一感がとても大きいはずだ。それもそのはず、一番左の「ド」の倍音だけを鳴らしたからだ。「ド2、ソ3、ド4、ミ5、ソ6」は、ド1の2倍音、3倍音、4倍音、5倍音、6倍音という同族関係になっている。 キリスト教が「三位一体だ!」と喜びそうな構成だ。主の音「ド(Dominus)」をエイヤーと2倍にしてみたら、神の子「ド」が生まれた。3倍でもう一丁と試してたら新しい「ソ」が生まれた。5倍では「ミ」も登場した。ド×2=ド、ド×3=ソ、ド×4=ド、ド×5=ミ、ド×6=ソ、と表してもよい。 つまり、ドミソの和音を弾くと、2オクターブ下のドが根音になって全体を統一している。 □□□□□□卍□□□□□□ 一方、「ドミ♭」の短三度は「5:6」の比率だが、「ドソ」=「2:3」と組み合わせると、 ド:ミ♭:ソ = 10:12:15 となり、シンプルさに欠ける。全体の調和が崩れてくる。さて、この和音に主音は存在するのだろうか。 完全五度が「2:3」の関係なので、ミ♭の完全五度下の音はラ♭となり、「ラ♭:ミ♭=8:12」の関係になる。オクターブは「1:2」の関係なので、1オクターブ下のラ♭は4、2オクターブ下は2、3オクターブしたは1となる。 ラ♭1、ラ♭2、ラ♭4、ミ♭6、ラ♭8、ド10、ミ♭12、ソ15。 つまり、ドミ♭ソの和音で敢えて根音を探すと、3オクターブ下の「ラ♭」になってしまう。3オクターブなので音の距離が遠い上に、和音の構成音(ド・ミ♭・ソ)以外の音が中心音になってしまう。 長三度和音から短三度和音に移行すると、 シンプルな調和を崩し、複雑性が大きくなる。 主音が明確な「明在系」から、主音が隠れた「暗在系」になる。 このような「不調和」や「隠れた音」が人間の心の琴線に触れると「不安感」を誘発し、「暗い」「悲しい」と表現されるのではなかろうか。 ■■■■■■十■■■■■■ 私が短調のわびしい曲が好きだった理由は、ピアノを弾きながら「癒されたい」からだ。仕事や日常生活、人間関係のストレスで疲れた気分を、よしよし、と慰めてほしい。家族や友人がわかってくれなくっても、あなたなら私のことをわかってくれる、ピアノさん、好きよ、ありがとう。 では、こういう侘びしい曲を、赤ちゃんや年少の子供に毎日のように聞かせてもいいものだろうかということだが、とりあえずの結論は、やはりほどほどにしておけ、である。「癒しの曲」といっても、大人の都合で癒しているだけで、聞かされる子供にはいい迷惑かもしれない。四七抜き(ファとシを抜いた)短調の演歌や、「さくら〜、さくら〜」の都調(みやこちょう)の短調、さらに短調が圧倒的に多い子守唄や民謡もさて、どうであろうか。 短調が「不安感」を誘発する理由は、ラから始まる旋律の上行音階と下行音階が異なることも関係があるかもしれない。上りと下りで段差が異なる階段は、つまづきそうでちょっと怖い。また、長調を「major」、短調を「minor」という言い方からもわかる通り、短調はもともと非主流派・少数派であり、「ものごとに長短あり」と解釈するならば欠陥音階なのだ。 しかしながら、調和を乱したり、隠し味をもっているからといって、「短」絡的になってはいけない。「ド・ミ♭・ソ」の和音の根音が、3オクターブ下の「ラ♭1」だとすると、この和音はドのすぐ下の「ラ♭8」とも親和性が高いはずだ。(これをオクターブ類似性という。)試しに「ラ♭8、ド10、ミ♭12、ソ15」を弾いてみると、これはラ♭で始まる長調の「セブン・メジャー」コードではないか! つまり、調和を乱したかに見えた短三度和音は、ジャズなど現代音楽で使用されるセブン・メジャーの導入でもあるわけだ。ここから発展して、九度、十三度のコードが登場すると、もうゴッタ煮で何でもありになっていくが、英語で「I feel jazzed」(ワクワクする)という表現あるように、三位一体から脱出すればラララな世界が待っているのだ。 ■追加のつぶやき: 子供の前の短調の曲はやめろという配偶者と、私が情熱を燃やして好きでやっているのに、何の問題があるの!と一時期、家庭内騒動があった。仲裁に入ったピアノの先生は「弾いている人が生き生きと輝くのなら、子供はそのエネルギーを受けるのだから、それでいいんじゃないですか」と私を応援した。 その一方で私自身、考え直した。1日に1〜2回ならばそこそこ気持ちがいいが、5回、10回と弾くと深いウツ状態を誘発し、気分が悪くなる短調の曲が確かにある。上手になりたい思いで何度も弾くわけだが、五万とあるピアノ曲から自分はどうしてその曲を選ぶのか、なぜ共鳴するのかと考えると、「好き=自虐、義理、中毒、見栄、テクニック」の場合もある。ゆえに音楽に対する内面の感受性には繊細でありたい。特に小さい子供の場合は、音楽が体に一発で浸み込むので、さらに繊細でありたいと思うわけだ。 |
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| AA77はペンタゴンに接近したが、衝突していない... | ヒロさん日記 @イギリス | |
| 911テロでアメリカン77便(AA77)はペンタゴンには激突していない。といっても、損傷部が小さすぎる、残骸が少なすぎるというような印象の話ではない。フライトレコーダーの記録に基づく、科学的な論証である。 旅客機にはフライトデータレコーダー(FDR)とコックピットボイスレコーダー(CVR)の2つが搭載されており、総称してブラックボックスと呼ばれている。911テロに使用された4機のうち、データが回収されたのはペンタゴン突入機(AA77)のフライトデーレコーダーと、ピッツバーグ郊外に墜落機(UA93)のコックピットボイスレコーダーの2つだけだ。 UA93のコックピットの音声は、飛行機に乗らなかった20人目のテロリスト、ザカリアス・ムサウイの裁判でも証拠として使用されている。遺族に音声を公開したときには存在しなかった、アラビア語の「アッラーアクバル(神は偉大なり)」が含まれていることから、捏造が疑われている。(参照:「撃墜された」ユナイテッド93:その証拠と証言の数々) 一方、ペンタゴン激突のフライトデータの方は、2006年8月に情報公開法を使い、「Pilots for 911 Truth」という航空パイロットのグループが国家運輸安全調査委員会(NTSB) | ||







